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今年の「加賀VS越中おもしろ源平大綱合戦」は津幡の勝利!!

一昨日はあいにくの曇り空でしたが、時折太陽が顔を見せる中、
倶利伽羅古戦場跡で「加賀VS越中おもしろ源平大綱合戦」が開催されました。

決戦前の両軍(左から)巴御前、木曽義仲、平維盛、平家軍の女武者

1183年5月11日の倶利伽羅源平合戦にちなんだこの大綱合戦では、
越中から攻め込んだ源氏・木曽義仲軍の小矢部市と、
加賀から攻め込んだ平家・平維盛軍の津幡町で戦われます。
普段は大河ドラマ「義仲と巴」誘致を目指してともに戦う仲間ですが、
この日ばかりは敵と味方に分かれ、全長120メートルの大綱を引き合います。

「今年は勝つぞ!」津幡町の平維盛軍 「今年も勝つぞ!」小矢部市の木曽義仲軍

これまでの通算成績は津幡が3勝4敗、今年は何が何でも勝ちたい!!
決戦前のセレモニーでは、その熱い意気込みが伝わってきました。
「今年は津幡のためにどうか負けてください」と矢田町長がお願いすると、
会場からは爆笑と拍手が巻き起こりました。

全長120メートル、直径約12センチの大綱 決戦直前の両陣営

津幡が赤、小矢部が白のハチマキを締めた各陣営100名が、試合時間15秒間の3本勝負に挑みます。
1本目は力強いふんばりで津幡が勝ち、2本目は小矢部が巻き返して勝ち、
最後の大勝負は圧倒的な力で大綱を引っ張った津幡の勝ちでした。

津幡・矢田町長も奮闘! 小矢部・桜井市長も奮闘!

今年は源平合戦の歴史を変えた!?津幡の平維盛軍のみなさん、本当にお疲れさまでした(^O^*:)
一方、津幡の「負けてー負けてー」の心理作戦に負けてくれた!?
小矢部の義仲軍のみなさん、本当にありがとうございました(^o^)
これで通算4勝4敗の大綱合戦、来年はどちらが勝つか、楽しみですね♪

力強いふんばりを見せる津幡の平維盛軍 圧倒的に大綱を引っ張った津幡の勝ち!

当日「倶利伽羅峠の歌」が流れる会場では、津幡町ゆるキャラ「火牛のカーくん」と
茶目っ気たっぷりの小矢部市ゆるキャラ「メルギューくん」も登場し、
記念撮影するチビッ子たちに囲まれ大人気でした。

チビッ子たちに大人気のゆるキャラ「火牛のカーくん」と「メルギューくん」 「おもしろ人物クイズ」に挑戦するチビッ子たち

小学生以下のチビッ子たちが参加した「おもしろ人物クイズ」では、
源平ゆかりの伝統芸能で活躍する地元人が登場し、
小矢部からは越中源氏太鼓保存会による和太鼓、津幡からは白鳥吟詠会による詩吟が披露されました。

倶利伽羅地区にも残る「源氏太鼓」は、倶利伽羅合戦で活躍した小矢部の武将、
蟹谷次郎たち義仲軍が戦勝を祝った酒宴で打ち鳴らした太鼓が始まりとされています。
越中源氏太鼓保存会では、小矢部市が毎年7月に開催する「源平火牛まつり」などで、
源氏太鼓を演奏しています。

越中源氏太鼓保存会による桶太鼓と篠笛の演奏 「ああ、倶利伽羅古戦場」を熱唱する白鳥吟詠会の中島初子さん

白鳥吟詠会の中島初子さんは、歌謡曲を盛り込んだ「ああ、倶利伽羅古戦場」を熱唱しました。
腹筋と背筋を使って歌う、その力強い美声にうっとりさせられました。
同会では、毎年「源平倶利伽羅を詠う全国吟詠大会」を開催しており、
昨年からは義仲ゆかりの地、木曽からもご参加いただいているそうです。
ちなみに、今年は6月2日(日)に開催予定だそうです。

大綱引き合戦後は、加賀と越中の2コースに分かれ、
新緑まぶしい歴史国道「旧北陸道」を散策!?のはずでしたが、
途中、雨やあられに見舞われ、傘や雨ガッパを着ての道中でした。

平維盛率いる行列が猿ヶ馬場を出発 名所「倶利伽羅小道」を散策

平維盛率いる行列は「倶利伽羅源平の郷」竹橋口を目指して猿ヶ馬場を出発し、
倶利伽羅公園倶利迦羅不動寺と続く倶利伽羅峠を下っていきます。
山森集落から旧街道に入り、馬洗い場跡を通り過ぎた一行は、
雨の中、めげずに龍ヶ峰城址公園まで歩きました。

ほぼ満開の山森集落の八重桜 雨にも負けず龍ヶ峰城址公園を目指す

同公園駐車場「道番人屋敷跡」でお茶とお団子で一息ついた後、残り後半の道のりを進んでいきました。
車では通れない旧街道の一騎討ち跡前坂権現を過ぎた頃、ようやく雨も上がり、竹橋に到着しました。
参加者のみなさん、雨の中、本当にお疲れさまでした。

道番人屋敷跡でお茶とお団子でホッと一息 最後の難所「前坂権現」はすぐそこ

1996(平成8)年から始まったこの「加賀vs越中おもしろ源平大綱合戦」は、
倶利伽羅さん八重桜まつり」とともに、倶利伽羅峠の春を告げる風物詩となっています。
この日は残念ながら、山頂の八重桜はまだ七分咲きでしたが、連休後半には
倶利伽羅公園一帯の八重桜が満開を迎え、お花見には最高ですよ♪
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座学研修会 義仲講座④「倶利伽羅合戦後~入京まで」

第4回目を迎えた「義仲講座」は、つばたふるさと探偵団の山崎信子さんを講師に、
倶利伽羅源平合戦後の石川県での義仲軍の足跡を中心に、義仲入京までを勉強しました。

1183年5月11日の倶利伽羅源平合戦で大勝利を収めた義仲に、
志雄山の戦い(源行家×平通盛)で敗戦濃厚との知らせが入り、援軍を志雄山に向かわせます。

一説によると、義仲は倶利伽羅合戦後に、同古戦場からほど近い手向神社
太刀を奉納したと伝えられていますが、残念ながら、現在この刀は残っていません。
第2次世界大戦中の金属類回収令によって軍に没収されたか、
あるいは戦後の混乱期に盗難に遭い紛失したそうです。

一方、倶利伽羅山での平家軍の大敗を聞いた平通盛は志雄山から退却し、
倶利伽羅山から敗退してきた平維盛と宮腰(金沢市金石付近)で集結し、陣容の立て直しを図ります。

かつては宮腰にあった大野湊神社(金沢市寺中町)には、倶利伽羅源平合戦を描いた
大絵馬(幅14.33メートル)が残っており、日本一の大絵馬といわれています。

義仲たちは山伝いに津幡に入り、北中条にある三輪神社の山手、
「王城(おうじょう)」で休養のため、数日間滞在します。
その山間部には、義仲が喉を潤したとされる滝水が今も残っています。

5月25日、義仲軍は津幡から金沢の波自加弥(はじかみ)神社、観法寺、堅田と兵を進め、
平岳野(金沢駅西口・平岡野神社)付近に陣を敷き、しばらくの間、宮越に布陣した平家軍と対峙します。

金沢市堅田町の譽田別(ほんだわけ)神社の由緒には、
「木曽義仲 堅田・岩出・観法寺の嶺峰に営城ありし時に祀る云々」と記され、
本社の波自加弥神社とともに、義仲が創建したと伝えられています。

波自加弥神社のブログによると、宮司の始祖は醒井小藤太という義仲の家臣でしたが、
義仲の京上洛に供奉(ぐぶ)せず、命によりこの地に土着したんだそうです。
同神社には、倶利伽羅合戦前に義仲が奉納した三条小鍛冶宗近作「中脂矢根」の矢や、
合戦後に書記の覚明に書かせた「正八幡宮」の額が大切に保管されています。

その後、南下する平家軍を追って義仲軍が京に向かって進軍した道は、
木曾街道」と呼ばれ、起点は松任成町、終点は福井県細呂木町といわれています。
この時、義仲軍を先導した地元の武士「北国武士団」の一人、加賀の富樫氏が崇拝していた
松任金剣宮(かなつるぎぐう)を義仲が参拝したと伝えられています。
近くには、義仲が寄進した神鏡が残る夛伎奈弥(たきなみ)八幡神社があります。

木曾街道をさらに進んだ義仲軍は、笠間の郷に入ります。
笠間神社では、義仲が戦勝祈願のために兜を奉納し、
手取川が増水したため、減水祈願も行ったとされています。
そのかいあって、川が減水すると、同神社の祭神・大宮比咩神の誘導によって、
兵士たちは流されないように手を取り合って川を渡ったことから、「手取川」と呼ばれるようになったそうです。
また、同神社には、兵士たちの空腹を満たすため、矢で地面を掘ると、
清水が湧き出した「木曽義仲弓堀の井戸」も残っています。

こうして義仲軍に追われた平家軍は、安宅の関へと退却し、源平両軍は梯川河口で再び戦うことになります。
京を出発した際は10万を数えた維盛軍は6万まで減り、対して義仲軍は5万でした。
もはや維盛軍に敵を押し返す力は残っておらず、倶利伽羅合戦で義仲とともに戦った
樋口兼光や今井兼平、石黒光弘、富樫泰家らの奮闘で、維盛軍は後退し、加賀の篠原まで退きました。

ここで記しておきたいのが、安宅の関の北東にある根上の松」古戦場です。
倶利伽羅合戦を前に、燧ヶ城(福井県今庄)を攻め落とし、加賀へ侵攻した維盛軍を食い止めようと、
津幡出身の井家次郎範方が、わずか17騎でもって維盛軍と戦い、11度の戦闘をしかけた後、
根上の松まで追い詰められて、壮絶な討ち死にをしたとされています。

kurikaragassenbyobu.jpg
倶利伽羅合戦図屏風」左隻には、井家次郎範方が根上の松で討ち死にをした戦いの様子が描かれています。

続く篠原の合戦では、平家軍の武将たちが次々と捕らえられていく中、ただ一騎敵に向かって来る武者がいました。
赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、もえぎおどしの鎧を着て、鍬の付いた兜をまとったその武将は、
手塚太郎光盛に討ち取られ、その首を義仲に差し出しました。
義仲は首を受け取ると、なんと!その顔に見覚えがありました。
首を傍らの小さな池で洗わせたところ、黒髪が白髪に変わりました。
僅か2歳で父を殺された義仲の命を助けようと、木曽に逃がしてくれた恩人、斉藤別当実盛の首でした。

実盛は源義朝に仕えていましたが、平清盛に討たれた(平治の乱)後は流れに逆らえず、
平宗盛に気に入られ平家の武将になっていました。
1183年の北陸出陣には、維盛軍に従っていた実盛は、
老いの身を侮られまいと、白髪を黒く染めて戦に望んだのでした。
義仲は、皮肉な再会となった実盛の首を抱えてさめざめと涙したといわれています。

義仲は樋口兼光を遣わし、実盛の兜と鎧の大袖などを願状とともに
多太神社(小松市上本折町)に奉納したと伝えられています。
現在、社宝(国重要文化財)として保存されているこの兜は、
実盛が源義朝から拝領されたものといわれています。

1689年、松尾芭蕉が『奥の細道』でこの地を訪れ、
「むざんやな 甲の下の きりぎりす」の一句を詠んでいます。

この実盛のエピソードで有名な篠原古戦場(加賀市)には、
実盛の首を洗ったという首洗池」を始め、実盛の亡骸を葬ったと伝えられている実盛塚」や、
実盛が髪を染める時に使った鏡を投げ入れた鏡の池」など、実盛の伝説にまつわる場所が残っています。


より大きな地図で 倶利伽羅源平合戦後の石川県での義仲軍の足跡 を見る

篠原の合戦でもあっけなく勝利した義仲軍は、一気に京へ向かい、
まず越前の国府(福井県武生)に入り、都入りの作戦会議を行います。
都に入る前に、山門(延暦寺)の大衆3千人に坂本(滋賀県大津市)辺りで妨害される場合を考え、
その方策で頭を悩ませていた義仲に、書記の覚明は牒状(ちょうじょう)を送ってはいかがかと提案しました。
義仲は覚明に、源氏に味方するよう依頼する牒状を書かせ、6月10日に「木曽山門牒状」を山門に送りました。

牒状を送った義仲は国府を出発し、近江に進軍し、蒲生野(がもうの)に陣を取り、返牒(へんちょう)を待ちます。
山門の大衆は僉議(せんぎ)の結果、義仲に味方することを決め、7月2日にその旨の返牒が義仲に届きました。

この義仲と山門とのやり取りを知らなかった平家は、義仲が返牒を受け取った3日後の7月5日に、
平宗盛他9名の連署にて山門に協力するよう願書を送りますが、一足違いで同意されませんでした。

都への入口、比叡山に義仲が入ったのは7月22日でした。
義仲が入京することを恐れた平家軍は、7月25日に6歳の安徳天皇を連れ、
総勢7千余騎で清盛が生前作った福原(摂津国・神戸市)へ逃げ出します。
その前日、平家の目を盗み延暦寺に身を寄せていた後白河法皇を守りながら、
7月28日、義仲軍は戦いをすることなく京に入りました。

次回の義仲講座は、義仲最期の戦いとなる「入京~粟津ヶ原」です。ぜひ、お楽しみに!

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座学研修会 義仲講座③「倶利伽羅源平合戦」

先月開かれた座学研修会「義仲講座」は第3回目を迎え、つばたふるさと探偵団の
松下共子さんを講師に、待望の「倶利伽羅源平合戦」について勉強しました。

講師の松下共子さん 義仲講座に聴き入る会員たち

源氏対平家の一連の戦いの中で、平家の滅亡で終わる「壇ノ浦の戦い」(1185年4月)が最後の戦いならば、
倶利伽羅源平合戦(1183年5月)はそのきっかけとなった最初の大きな戦いといえます。

この運命的な決戦の2日前、1183年5月9日の越中般若野の合戦で戦況不利に陥り退却した平家軍は、
陣容を立て直し、能登越中国境の志雄山に平通盛・知度率いる3万、
倶利伽羅山に平維盛率いる7万の兵を向かわせ、二手に分かれて陣を敷きました。

一方、義仲は途中の越後、越中で兵を集め、その数5万の軍勢となります。
(一説には、源氏軍4千~5千、平家軍4万との説もあります。)
戦勝祈願を行った埴生護国八幡宮の付近に陣を敷き、綿密な軍儀を行い、
まず源行家率いる1万の兵を志雄山に向かわせます。
したがって、倶利伽羅山に向かった平家軍7万という大軍に対し、自分の兵は4万と
数では不利だと分かった義仲は、平地ではなく倶利伽羅山の山中を戦場にしたいと考えます。
源氏軍4万の兵を六手に分け、三方から山上の敵を包囲し、
南側の深い谷へ平家軍を追い落とす作戦を取ります。

5月11日昼、まず源氏の今井兼平隊が前に出て攻め込もうとする動きを見せると、
倶利伽羅山の猿ヶ馬場に陣を敷いていた平家軍も反撃に出る体制を整えます。
今井隊が矢立から矢を放つと、平家軍も幅300メートルほどの谷を隔てた
塔の橋から矢を射返し、両陣営間で矢合わせが始まりました。
矢合わせとは、大きな音の出る鏑矢(かぶらや)を互いに飛ばし合い、
開戦を合図し合う、当時の合戦では儀礼のようなものなんだそうです。
こうして日中は、敵を牽制しながら小競り合いに終始し、義仲は日暮れを待ちました。

倶利伽羅合戦の軍勢配置図
小矢部市観光パンフレット「義仲と巴 マップ パンフレット」より引用

辺りが暗くなると、義仲は後ろに構えていた全軍に今井隊の線まで前進させ、
義仲本隊も埴生八幡宮から前進し、倶利伽羅山を三方から包囲していきました。
さらに、近隣の農家から徴収した数百頭の牛の角に松明をくくり付けます。
一方、平家軍は明日の決戦に備え、行軍の疲れもあって深く寝入ってしまいます。

平家軍が寝静まった夜半すぎ、竹橋方面から樋口兼光隊が太鼓やほら貝を一斉に鳴らしながら
大きな声を上げて襲いかかると、これを合図に他の隊も同時に鬨の声を上げ突進しました。
義仲本隊も牛の角にくくり付けてあった松明に火を点け、
牛の尻をたたき平家軍めがけて牛を突進させ、その後に続いていきます。

不意をつかれた平家軍は慌てふためき、刀1つを数人で奪い合ったり、
馬には後ろ向きに乗ったりと戦いにならず、大混乱となります。
逃げ場を探しますが、西から搦め手(からめて)の樋口隊、
東から追い手の今井隊、巴御前隊、根井小弥太隊、余田次郎隊、
そして、北から角に燃えさかる松明をくくり付けられて荒れ狂った牛の大群に続く義仲本隊に攻め込まれ、
逃げ場を失った平家軍は南の深い谷底に次々と崩れ落ちていきました。

深い谷は上から落ちてきた人や馬が重なり圧死した死骸で埋め尽くされ、
谷川は血で赤く染まり、さながら地獄と化した光景だっといいます。
長年に渡って人骨や武具が散らばった谷はいつしか「地獄谷」と呼ばれ、
死骸から出た膿が流れ込んだ谷川は「膿川」と呼ばれようになりました。

壮絶な戦いが描かれた「倶利伽羅合戦図屏風」
津幡町竹橋の倶利伽羅神社蔵「倶利伽羅合戦図屏風」

この夜襲によって平家軍は1万8千の兵を失い、武将の平為盛は樋口兼光によって首をはねられ、
志雄山で戦っていた平知度は激しい戦いの末、津幡町平谷にて自害しました。
総大将の平維盛は命からがら南に逃げ、志雄山から退却した平通盛と宮越(金石)で集結し、
陣容の立て直しを図ります。

大勝利を収めた義仲は、この戦いで愛妾の一人、葵御前を失い、
倶利伽羅峠の麓の蓮沼という草深い山中にその亡骸を葬った後、
敗走する平家軍を追撃するため京へ向かいました。

数の上では圧倒的に不利だった義仲軍が勝利した理由としてまず挙げられるのは、
戦場となった倶利伽羅の地形を良く知っていた地元の武将たちを味方につけたことです。
2千騎率いる根井隊には蟹谷次郎(かんだのじろう)、1千騎率いる巴隊には水巻四郎・小太郎の兄弟が道案内し、
最前線の源氏ヶ峰へ向かったとされています。

義仲の作戦が上手だったことも、大きな勝因です。
都育ちの平家軍と違って、木曽の険しい山中で日頃から乗馬や馬上から弓を射る
訓練に励んでいた義仲たちは、平地ではなく山中で戦う作戦を取ったことです。
そして、日中ではなく夜中に襲撃し、さらに、奇襲戦法「火牛の計」にかけては天才的といえます。

「火牛の計」モニュメントが立つ倶利伽羅古戦場

『源平盛衰記』には、義仲を勝利に導いたエピソードとして、30騎の白装束の人影が現れ、
火牛に追い立てられた平家軍を深い谷底へと誘導したとも記されています。
義仲が戦勝祈願をした、埴生護国八幡宮の八幡大菩薩の化身だったのかもしれませんね。

『源平盛衰記』や『平家物語』などに基づいたこれらの史実には、
脚色や誇張が付き物であるとよく言われますが、例えば、
火牛の計」は中国の春秋戦国時代の「田単の火牛の計」を参考にしたフィクションであるとの見方もあります。
しかしながら、津幡町河合谷の上河合地区には、倶利伽羅合戦に徴用された
牛の供養が起源とされる『牛舞坊』の舞いが今日まで伝わっています。

義仲が取った夜襲や平家軍の背後から奇襲する戦法は、
当時の戦いとしては卑怯な手法とよく非難されますが、
生きるか死ぬかの戦いで勝てば良いと考えれば、それもあり!?
義仲が見事に圧勝した戦いだったからこそ、800年あまり経った今日まで
倶利伽羅合戦が語り継がれてきた所以ではないでしょうか?
津幡町倶利伽羅地区には、倶利伽羅合戦を物語る「倶利伽羅峠の歌」が今も歌い継がれています。

次回の義仲講座は「倶利伽羅合戦後~入京まで」です。ぜひ、お楽しみに!

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加賀百万石ウォーク「木曽義仲と巴御前ゆかりの地めぐり」

先日開催された加賀百万石ウォーク「木曽義仲と巴御前ゆかりの地めぐり」に参加し、
町観光ボランティアガイド「つばたふるさと探偵団」の桑江さんと寺西さんの案内で、
倶利伽羅峠の木曽義仲と巴御前ゆかりの地を訪ねました。
金沢や加賀、富山、福井から総勢14名の方々が参加されました。

石川県では、県内の名所・旧跡の再発見と新たな魅力を広く知ってもらうために、
各市町村の地元観光ボランティアガイドの案内で巡る小さな旅「加賀百万石ウォーク」を随時開催しています。

5トンもある日本一の義仲騎馬像 雪囲いされた埴生護国八幡宮社殿

最初に訪れたのは、義仲が倶利伽羅源平合戦の戦勝祈願をしたとされる埴生護国八幡宮(小矢部市)です。
その際の願文写しや奉納した矢が保管されている宝物殿は、毎年1月1日に一般公開されるそうです。

白鳩に導かれて義仲が発見した「鳩清水」 銘板の「八」が鳩の形をした埴生護国八幡宮

社殿正面に登る石段の右手前には、「とやまの名水55選」の一つ「鳩清水」があります。
この清水は、同神社から3キロ離れた倶利伽羅山中の「鳩清水」の滝から水を引いているそうです。
同神社付近に陣を取った義仲が、倶利伽羅山へ兵を進めた時、水場がなくて困っていたところへ、
空から白鳩が飛んできて、山中にあるこの滝まで案内したと伝えられています。
だから、同神社銘板の「八」が鳩の形をしているんですね。

埴生護国八幡宮を後にし、倶利伽羅峠の「三十三観音」のうち11体が安置されている医王院を過ぎ、
義仲の愛妾といわれる女武将の巴御前と葵御前の塚を訪ねました。
葵塚・巴塚は、小矢部市から倶利伽羅峠へ向かう約3.5キロのドライブコース「源平ライン」の途中にあります。

葵は倶利伽羅合戦において討ち死にし、供養のために、その亡骸が葬られたこの場所に塚が築かれました。
その葵塚を見守るかのように、そばに巴塚が立っています。

倶利伽羅合戦で討ち死にした葵御前の塚 義仲が最も愛したといわれる巴御前の塚

義仲が最も愛したといわれる巴は、義仲没後、南砺市(福光)に庵を建て、義仲の菩提を弔い、
91歳で亡くなる際の遺言により、葵塚のそばに巴塚が築かれたそうです。

どちらの墓石も刻まれた墓銘が読み取れないほど、(風化によるものではなく、)
明らかに人間の手によって削られた跡が残っています。
巷の噂では、倶利伽羅合戦から800年あまり経った今でも、平家の源氏に対する怨念が強く、
その末裔が墓銘を削ったのではないかといわれているそうですが、
平家落人伝説と同じで、源平というとこの手の噂は付き物ですね(^_^;)

平維盛が本陣を置いた猿ヶ馬場 倶利伽羅古戦場展望台にて桑江さん(右)と寺西さん

さらに源平ラインを進んで行くと、義仲軍の最前線だった矢立と平家軍の最前線だった塔の橋が見えてきます。
幅300メートルほどの谷を隔てたこの地で日中、矢合わせが行われ、
夜半に義仲軍が火牛を突入させたとされる砂坂登り口を過ぎ、平維盛が本陣を置いた猿ヶ馬場に到着しました。
この辺り一帯が倶利伽羅古戦場と呼ばれ、展望台からは巴軍が攻め込んだ源氏ヶ峰や、
火牛に追い立てられた平家軍が落ちていった地獄谷が望めます。

展望台から望む地獄谷 当時の面影を色濃く残す旧北陸道「倶利伽羅小道」

当時の面影を色濃く残す旧北陸道「倶利伽羅小道」を歩いて通り抜け、紅葉真っ盛りの倶利伽羅公園を横目に、
倶利迦羅不動寺に着いた頃は既にお腹がぺこぺこ、待望の昼食タイムになっていました(^o^)

倶利伽羅公園の見事な紅葉 1300年の歴史を誇る「倶利迦羅不動寺」を見学

倶利迦羅そばで有名な山頂堂食堂奥の広間に入ると、
テーブルには地元の食材を使った竹なべ料理が並んでいました。
平家の落武者の名前に由来するこの竹なべ料理「げんとくなべ」をメインに、
町特産のマコモが入った炊き込みご飯やおでん、栗が丸ごと一つ入った不動大福まで付いていました。

ランチは地元の食材を使った竹なべ料理 平家の落武者の名前に由来する「げんとくなべ」

そして、今回のツアーのサプライズともいえる!?同不動寺の五十嵐光峯住職が来られたのにビックリ!!
僧侶たちが毎日の食事の時に行っている「食事極略作法」を教えていただいた後、
同住職を囲んで美味しく食事をいただきました。
津幡町の特産が詰まった料理はもちろん、笑顔の素敵なイケメン☆の五十嵐住職に大満足の昼食タイムでした。

倶利迦羅不動寺の五十嵐光峯住職を囲んで昼食 笑顔の素敵なイケメン☆の五十嵐住職と記念撮影

帰りに立ち寄った倶利伽羅塾で、町特産マコモの加工品を見つけました。
温めるだけですぐ食べられる「まこも炊き合わせ」に、炒め物や鍋物にすぐ使える「まこもの水煮」です。
津幡町のゆるキャラたちがオススメする倶利伽羅米も売られていましたよ♪

倶利伽羅塾にて町特産マコモの加工品 津幡町のゆるキャラたちがオススメする倶利伽羅米

「つばたふるさと探偵団」の観光ボランティアガイドのみなさん、
今後も津幡町の魅力発信のために頑張ってくださいね♪応援してます(^o^)

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座学研修会「能・狂言について」

先日の座学研修会は、日本能楽協会会員の岩井嘉樹さんを講師に迎え、
日本の代表的伝統芸能『能』について勉強する機会を得ました。
岩井先生は宝生流シテ方としてご活躍され、
年12回の定期公演『加賀宝生能』に必ず出演されています。

能と聞けば、「敷居が高い」「格が高い」などと思われがちですが、
そのせいか、会場はちょっぴり緊張感に包まれていました。
「謡(うたい)と能が好きな酒屋のじいちゃん」と岩井先生が自己紹介されると、
会場からは笑いが起こり、一気に緊張がほぐれました。

ビデオを見ながら能・狂言について説明される岩井先生

最初に、10年前に岩井先生が舞われたビデオを見ながら、
能と狂言について分かりやすく説明していただきました。
能も狂言も、元々は祭りのアトラクションとして生まれ、
650年前までは庶民の間で楽しまれてきた大衆芸能でした。

能は、能面と装束をまとって舞うシテ方(主役)とワキ方(脇役)、
笛・小鼓・大鼓・太鼓の4つの楽器を担当する囃子方、
合唱を担当するコーラスグループから構成される、
オペラに近い総合的な舞台芸能です。
一方、狂言は能と同じ舞台を使いますが、囃子方とコーラスなしで、
主役と脇役がせりふのみのやり取りで物語を進める演劇です。

どちらも庶民の日常生活を題材として取り上げ、特に、
能は不倫や三角関係、心中などいった、現代のワイドショーで
取り上げられるような話題を題材にしています。
狂言は、もっぱらこっけい話を題材に取り上げ、
いわば漫才やコントに近いといえます。

大衆芸能として生まれた能は、室町時代以降、
歴代の権力者たちによって保護され、武家の教養として発展していきました。
歴史や神話、『平家物語』や『源氏物語』などの古典文学が
題材として扱われるようになりました。

足利義満や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も能を好みましたが、
特に、秀吉は熱狂的なファンで能を厚く保護しました。
自分の手柄話を題材にさせ、自分を主役にさせたほどです。
さらに、能役者のスポンサーになり、能楽界で秀吉は「神様」と崇められていたそうです。

前田利家も少なからず秀吉の影響を受け、加賀藩でも能が盛んになっていきました。
中でも、5代藩主前田綱紀の保護で、宝生流が金沢に根付き、
庶民にも謡や囃子が広まったのが、加賀宝生の始まりとされています。
専業の能役者に加えて、大工や左官などの職人たちも能をたしなみ、
いわゆる町役者が育っていきました。

このような歴史的風土から、金沢では今でも能が盛んです。
毎月第一日曜日、県能楽堂で開かれる定期公演『加賀宝生能』は、
チケット2,000円の低料金で能を楽しめます。
さらに、気軽に能楽の魅力に触れてもらうため、
7・8月の2ヶ月間、毎週土曜日に「観能の夕べ」が開かれます。
わずか1,000円で、能・狂言を各一番ずつ観ることができるので、
外国人など観光客も非常に多いそうです。

能楽には5つの流派があり、演目は全部で250曲ほどですが、
その内、北陸をテーマにした演目で一番有名なのは、
歌舞伎『勧進帳』でも知られる小松市「安宅の関」が舞台の『安宅』です。
義仲にまつわる演目として、実盛の最期を題材とする『実盛』は、
加賀市源平町「首洗いの池」が舞台となっています。

『実盛』を熱演する岩井先生 『実盛』を熱演する岩井先生

そして、倶利伽羅合戦を題材とした『巴』では、巴の霊が義仲との別れを再現し、
最期まで共にできなかったことを嘆き、僧に供養を願うという悲劇です。
この『巴』は、昨年、津幡町「シグナス観能の会」で上演され、大好評でした。
ちなみに、津幡町には第一線で活躍するプロの能楽師(ワキ方・笛)が2人いるそうです。

『実盛』を熱演する岩井先生

最後に、岩井先生による『実盛』が実演され、最後の山場の10分間を熱演していただきました。
かかとを付けて前進する「すり足」と足拍子で舞う姿は、力強く美しかったです。
岩井先生、今回は貴重な体験をさせていただき、本当にありがとうございました。

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