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能瀬四町獅子舞頭合せ

津幡四町獅子舞頭合せに引き続き、能瀬四町獅子舞頭合せに行ってきました。
今年が四町獅子舞頭合せ初の試みということで、会場は熱気にあふれていました。

四町内を流れる能瀬川

地区内を流れる能瀬川沿いに位置する四町は、順徳上皇ゆかりの地として知られ、
毎年4月に上皇をしのんで「能瀬川公園桜まつり」が開催されます。
ちなみに、その昔能瀬川に河童がいたという伝説も残り、近くには天狗伝説が残る日吉神社もあります。

鎌倉時代に佐渡へ流された順徳上皇が、その途中3年間滞在されたと伝えられる御門区、
その際、上皇に差し上げる飲料水のために掘られた井戸跡が残る能瀬区、
大しけの際に上皇の命を助けたとされる聖徳太子像を安置した広済寺がある領家区から、
各青年団と獅子舞保存会による獅子舞競演が披露されました。

獅子の乾杯?に始まったユニークな獅子舞頭合せ 獅子の乾杯?に始まったユニークな獅子舞頭合せ

領家区獅子舞保存会の大場さんによると、3.11をきっかけに四町の絆を深めるようと、
青年団と保存会が中心となって今日の開催にこぎつけました。
特に、若い世代は自分の町内で縦のつながりはありますが、
四町間での横のつながりがほとんどなかったことから、
この獅子舞競演を機に、同世代の交流が始まっているそうです。
日頃の地域のつながりこそが災害時に大きな力を発揮する、こう、熱く語ってくれました。

御門区獅子舞保存会による獅子舞 御門区獅子舞保存会による獅子舞

北から領家、東から御門、南から表能瀬、西から浦能瀬の各獅子が到着すると、
会場は四町民でいっぱいになりました。
まず、四町の獅子が中央に集まり、頭合せかな?と思いきや、
獅子の口に一升瓶をもっていき、お酒を注いだのには(ノ゚⊿゚)ノびっくり!!

浦能瀬青年団による獅子舞 浦能瀬青年団による獅子舞

お酒が入ったせいか、獅子たちがほろ酔い気分になったところで、さあ、獅子舞のスタートです。
領家、浦能瀬、御門、表能瀬と続き、獅子舞が披露されていきます。
特に、表能瀬青年団は熱い若者が多くて、祭りを盛り上げてくれました(^o^)

御門区獅子舞保存会による獅子舞 御門区獅子舞保存会による獅子舞

今回の祭りで大活躍だったのは、棒振りのチビッ子たちでした(^O^☆♪
四町とも、薙刀(なぎなた)を振りながら勇敢に獅子に立ち向かう男の子たちに、
会場からは盛大な拍手が送られました。
小さい頃から地域の伝統文化にふれる彼らが、やがて大きくなると、
次の世代にその技を伝えていく、こうして獅子舞は守られていくんですね。

表能瀬青年団による獅子舞 表能瀬青年団による獅子舞

獅子の乾杯?に始まったユニークな獅子舞頭合せもさることながら、
四町の各獅子頭にまつわる面白い言い伝えも残っています。

表能瀬の通称「雌獅子」は、子持ちの母獅子であったため、気が荒く喧嘩が絶えなかったことから、
金沢市大樋町がやむなく売りに出したものを買ったので、子獅子もちゃんとあるそうです。

浦能瀬の通称「雄獅子」は、金沢市春日町が所有していた
「春日さんのいさかい獅子」と呼ばれていたもので、
その気の荒さから春日町がやむなく売りに出したものを買ったそうです。
現在は引退し、同区の集会所に飾られています。

そして、なんと、領家と御門の獅子頭は夫婦(めおと)獅子だそうです。
獅子頭にも夫婦があるとは知りませんでした(*^_^*)
領家の通称「大獅子」は土の神様、御門の通称「雌獅子」は水の神様といわれています。

祭りを盛り上げる表能瀬青年団 手締めで終わった能瀬四町獅子舞頭合せ

今回の祭りを機に、四町間でお互いの顔を知るのはもちろん、
お互いの伝統文化である獅子舞を知ってもらうことも、最大の目的のひとつだそうです。
将来は津幡一の獅子舞頭合せにしたい、そんな熱い思いが伝わってきた祭りでした。
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津幡四町獅子舞頭合せ

祭り当日、津幡町特産「おまん小豆」の会でも活躍中の
つばたふるさと探偵団の寺西さんのお宅におじゃましました。
かつての津幡宿の四町だった町内の各家の玄関先には、祭りの幕や提灯が飾られ、
獅子舞に花代(ご祝儀)を振る舞う風習が今でも残っています。

町内を練り歩く庄住吉会の獅子舞 獅子と対決する棒振りの男の子たち

午後1時頃、庄住吉会の棒振りの男の子が寺西さん宅に挨拶に来ました。
表に出ると、総勢30名ほどの獅子舞とお囃子、太鼓屋台が町内を練り歩き、
棒振りに先導されて獅子舞が披露されていきました。
庄住吉会では、青年団に混じり、若い女性や女の子も獅子舞に参加していました。
日本各地で後継者不足のため獅子舞がすたれていく中で、
今でも地区ぐるみで獅子舞を継承していく姿は本当に素晴らしいです。

勇壮に走り出す庄住吉会の獅子 黒熊の皮が張られた庄住吉会の顔「大獅子」

庄住吉会を始め、清水八幡会や津幡太白会、加賀爪白鳥会の各獅子舞は、
早朝から自分たちの地区を回り、夕方6時半頃に四ツ角に集結すると、
祭りは最高潮を迎えます。

庄住吉会会長の宮嶋さんによると、四町獅子舞頭合せは昭和44年から始まったそうです。
以前は四町の戸数が今ほど多くなく、例えば、庄住吉会の獅子舞は庄だけでなく、
清水や津幡、加賀爪の他の地区も回っていたことから、所々で獅子がかち合うと、
お互いの棒振りが自分と相手の獅子を鎮めながら、分かれていきました。
その後、四町の戸数も次第に増えていき、各獅子舞は自分の地区だけを回るようになると、
獅子がぶつかり合う「かち合わせ」も見られなくなっていきました。
そんな中、この名残りを残そうと、当時の四町の青年団が発案し、
四町の中心である四ツ角で獅子舞が競演されるようになったのが始まりだそうです。
昭和56年からは、主役の棒振り=獅子舞だけでなく、
裏方のお囃子と太鼓の競演も披露されるようになりました。

四町獅子舞頭合せが行われる四ツ角は、かつての津幡宿の中心だったところで、
加賀、越中へ向かう北国街道と能登へ向かう能登街道の分岐点(T字路)でした。
1887(明治20)年に津幡小学校が津幡城址に移転された後、
津幡城址に続く新道が造成され、現在の十字路となりました。

お囃子と太鼓の競演 迫力いっぱいの獅子舞競演

その四ツ角交差点で待っていると、能登側から庄住吉会、
金沢側から加賀爪白鳥会、倶利伽羅側から津幡太白会、そして、 
津幡城址側から清水八幡会の獅子舞が次々と到着し、四町の獅子が勢揃いしました。
四町の団長が競演の順番を決め、まずお囃子と太鼓の競演が始まりました。
力強い太鼓の音に軽快なお囃子の笛の音色に誘われて、獅子たちも興奮してきます。

迫力いっぱいの獅子舞競演 迫力いっぱいの獅子舞競演

さあ、いよいよクライマックスの獅子舞の競演です。
加賀爪白鳥会と庄住吉会からは薙刀(なぎなた)を持った棒振り、
津幡太白会と清水八幡会からは太刀(たち)を持った棒振りの登場です。
各地区の棒振り二人が順番に、四匹の獅子に立ち向かいます。
興奮した獅子たちが互いに挑発し合い、頭をぶつけ合います。
それをなだめるように、棒振りが華麗に舞い踊る姿は圧巻です。

薙刀を持つ棒振りの華麗なショー 獅子舞を支えるお囃子と太鼓

獅子舞の主役ともいえる棒振りは、獅子を退治する剣士です。
宮嶋さんたち庄住吉会では、毎年2人が棒振りに選ばれ、
その1人が翌年も残り、交代した新たな1人にその技を伝授していくそうです。
このような地道な努力を積み重ね、代々受け継がれてきた獅子舞を次世代に伝えていくんですね。

フィナーレを飾る四町の獅子頭 最後はひとつになった四町民

中には酒が入り、獅子同様、相手を挑発する場面もありましたが(*^_^*)
最後は仲良く四町の団長が一升酒を飲み回し、三三七拍子で締められました。
そして、四ツ角の真ん中で四町の獅子頭がひとつになり、津幡四町の暑い夏もようやく終わりました。

厳しい残暑の中、津幡四町の関係者のみなさん、本当に本当にお疲れ様でした(^O^*:)
来年もぜひ、この素晴らしい獅子舞頭合せを披露してくださいね!(^O^☆♪

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座学研修会 義仲講座②「旗揚げ~埴生護国八幡宮」

先日の座学研修会は、前回に引き続き「義仲講座」が開かれました。
つばたふるさと探偵団の出見世裕子さんを講師に、
「旗揚げ~埴生護国八幡宮」について勉強しました。

講師の出見世裕子さん 義仲講座に聴き入る会員たち

源平の戦いの明暗を分けた倶利伽羅合戦の3年前、1180年に
義仲は木曽日義村宮の原(木曽福島の説有り)で旗揚げしました。
その背景には、平家の横暴に対して、後白河法皇の
皇子・以仁王(もちひとおう)が平家追討の命を下したからです。
1000余騎を従え、平家打倒の旗揚げをした時、義仲27歳でした。

木曽町日義の「義仲館」の近くには、義仲が旗揚げの際に、
八幡宮を祭ったと伝えられている「旗挙八幡宮」があります。

その後、木曽から東信濃に北上した義仲は、同調する東信濃勢と合流し、
上田市丸子の依田城(よだじょう)で挙兵しました。
義仲を支援する依田氏が、その拠点となる城を譲ったとされています。

次いで、史料上で義仲の初戦と伝えられる市原合戦で、
平家方の笠原氏に勝利し、翌年(1181年)の横田河原の合戦へと続きます。

市原合戦で義仲に敗れた平氏は、越後の豪族・城氏を信濃に送り込みます。
6万騎もの大軍に対して、義仲軍はわずか3千騎でした。
数では圧倒的に劣勢だった義仲軍は、7手に分かれ、
平家軍を装って赤旗を掲げ、千曲川を渡ります。
平家軍に近づいた途端、赤旗を斬り捨て、源氏の白旗を掲げます。
こうして、奇襲攻撃で敵を撹乱し、大勝利を収めました。

源頼朝は奇襲攻撃が得意といわれていますが、
義仲もこの赤旗偽装作戦やかの有名な「火牛の計」作戦で、
次々と勝利を収めていったんですね。

横田河原の合戦の大勝により、信濃と越後はもちろん、
越中、能登、加賀、越前の豪族たちは次々と義仲勢に加わり、
北陸も義仲支配下に置かれました。

1183年、勢力を拡大してきた義仲に、源頼朝が不審を抱き、
義仲を討とうと信濃に攻めてきました。
義仲は父を頼朝の兄義平に殺されていますが、頼朝としては、
父殺しの恨みをもつ義仲の復讐を恐れていたと思われます。

そこで、義仲が11歳の嫡男・源義高(清水冠者)を
いずれ頼朝の長女大姫の婿にする条件で、
人質として差し出すことで、頼朝はようやく納得しました。
幼いながらも義高と大姫は、仲睦まじく幸せな日々を送ります。

しかし、翌年(1184年)近江国粟津で父の義仲が、
頼朝の弟・義経に討たれた後の義高には、悲惨な運命が待っていました。
今度は義高の復讐を恐れた頼朝は、義高を殺すことを計画します。
それに気づいた大姫の手引きで、義高は鎌倉を脱出しましたが、
すぐに発覚、武蔵国(埼玉県)入間(いるま)川原で殺されました。
最愛の義高を失った大姫の嘆きは深く、若くして亡くなくなったといわれています。
二人の幼くもはかない悲恋物語は、後年『清水冠者物語』で語られています。

1183年4月、平維盛を大将とする討伐軍が北陸へ向かい、
義仲にとって越前の防衛線だった燧ヶ城(火打が城)を攻め落としました。
勝った平家軍は加賀へ侵攻、越中になだれ込み、般若野合戦へと続きます。

『源平盛衰記』には、源氏方の井家次郎範方一党17騎が平維盛軍と戦い、
11度の戦闘をしかけた後、根上の松まで追い詰められて
壮絶な討ち死にをしたと記されています。

井家二郎範方が根上の松で討ち死にした戦いの様子が描かれた「倶利伽羅合戦図屏風」
津幡町竹橋の倶利伽羅神社蔵「倶利伽羅合戦図屏風」

越後の国府にいた義仲は、平家軍が越前・加賀を手中に収め、
越中に進軍するとの知らせを受け、自ら軍を率いて越中へ乗り込みます。
まず、義仲の四天王の一人今井兼平軍6千騎が、
呉羽山のふもと般若野で、平家軍先遣隊の平盛俊軍5千騎を破ります。
倶利伽羅合戦の前哨戦ともいえる般若野合戦は、決戦2日前の5月9日でした。

その頃、義仲は来たるべき平家軍との決戦を前に、
砺波山の北に位置する埴生に陣を取っていました。
その際、埴生護国八幡宮で義仲が戦勝祈願をしたとされています。

埴生護国八幡宮社殿に続く103段(かつては108段)の石段 国指定重要文化財の埴生護国八幡宮社殿

八幡といえば源氏の守護神ですが、義仲が願文と矢を奉納すると、
八幡神の使いである白いハト3羽が飛来し、義仲は勝利を確信したと伝えられています。

1300年余りの歴史を誇る埴生護国八幡宮は、それ以降、「勝ち運の神」として
戦国時代には佐々成政が、藩政期には加賀藩前田家が厚い信仰を寄せました。

次回の義仲講座は、待望のクライマックス「倶利伽羅源平合戦」です。
ぜひ、お楽しみに!

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