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座学研修会 義仲講座③「倶利伽羅源平合戦」

先月開かれた座学研修会「義仲講座」は第3回目を迎え、つばたふるさと探偵団の
松下共子さんを講師に、待望の「倶利伽羅源平合戦」について勉強しました。

講師の松下共子さん 義仲講座に聴き入る会員たち

源氏対平家の一連の戦いの中で、平家の滅亡で終わる「壇ノ浦の戦い」(1185年4月)が最後の戦いならば、
倶利伽羅源平合戦(1183年5月)はそのきっかけとなった最初の大きな戦いといえます。

この運命的な決戦の2日前、1183年5月9日の越中般若野の合戦で戦況不利に陥り退却した平家軍は、
陣容を立て直し、能登越中国境の志雄山に平通盛・知度率いる3万、
倶利伽羅山に平維盛率いる7万の兵を向かわせ、二手に分かれて陣を敷きました。

一方、義仲は途中の越後、越中で兵を集め、その数5万の軍勢となります。
(一説には、源氏軍4千~5千、平家軍4万との説もあります。)
戦勝祈願を行った埴生護国八幡宮の付近に陣を敷き、綿密な軍儀を行い、
まず源行家率いる1万の兵を志雄山に向かわせます。
したがって、倶利伽羅山に向かった平家軍7万という大軍に対し、自分の兵は4万と
数では不利だと分かった義仲は、平地ではなく倶利伽羅山の山中を戦場にしたいと考えます。
源氏軍4万の兵を六手に分け、三方から山上の敵を包囲し、
南側の深い谷へ平家軍を追い落とす作戦を取ります。

5月11日昼、まず源氏の今井兼平隊が前に出て攻め込もうとする動きを見せると、
倶利伽羅山の猿ヶ馬場に陣を敷いていた平家軍も反撃に出る体制を整えます。
今井隊が矢立から矢を放つと、平家軍も幅300メートルほどの谷を隔てた
塔の橋から矢を射返し、両陣営間で矢合わせが始まりました。
矢合わせとは、大きな音の出る鏑矢(かぶらや)を互いに飛ばし合い、
開戦を合図し合う、当時の合戦では儀礼のようなものなんだそうです。
こうして日中は、敵を牽制しながら小競り合いに終始し、義仲は日暮れを待ちました。

倶利伽羅合戦の軍勢配置図
小矢部市観光パンフレット「義仲と巴 マップ パンフレット」より引用

辺りが暗くなると、義仲は後ろに構えていた全軍に今井隊の線まで前進させ、
義仲本隊も埴生八幡宮から前進し、倶利伽羅山を三方から包囲していきました。
さらに、近隣の農家から徴収した数百頭の牛の角に松明をくくり付けます。
一方、平家軍は明日の決戦に備え、行軍の疲れもあって深く寝入ってしまいます。

平家軍が寝静まった夜半すぎ、竹橋方面から樋口兼光隊が太鼓やほら貝を一斉に鳴らしながら
大きな声を上げて襲いかかると、これを合図に他の隊も同時に鬨の声を上げ突進しました。
義仲本隊も牛の角にくくり付けてあった松明に火を点け、
牛の尻をたたき平家軍めがけて牛を突進させ、その後に続いていきます。

不意をつかれた平家軍は慌てふためき、刀1つを数人で奪い合ったり、
馬には後ろ向きに乗ったりと戦いにならず、大混乱となります。
逃げ場を探しますが、西から搦め手(からめて)の樋口隊、
東から追い手の今井隊、巴御前隊、根井小弥太隊、余田次郎隊、
そして、北から角に燃えさかる松明をくくり付けられて荒れ狂った牛の大群に続く義仲本隊に攻め込まれ、
逃げ場を失った平家軍は南の深い谷底に次々と崩れ落ちていきました。

深い谷は上から落ちてきた人や馬が重なり圧死した死骸で埋め尽くされ、
谷川は血で赤く染まり、さながら地獄と化した光景だっといいます。
長年に渡って人骨や武具が散らばった谷はいつしか「地獄谷」と呼ばれ、
死骸から出た膿が流れ込んだ谷川は「膿川」と呼ばれようになりました。

壮絶な戦いが描かれた「倶利伽羅合戦図屏風」
津幡町竹橋の倶利伽羅神社蔵「倶利伽羅合戦図屏風」

この夜襲によって平家軍は1万8千の兵を失い、武将の平為盛は樋口兼光によって首をはねられ、
志雄山で戦っていた平知度は激しい戦いの末、津幡町平谷にて自害しました。
総大将の平維盛は命からがら南に逃げ、志雄山から退却した平通盛と宮越(金石)で集結し、
陣容の立て直しを図ります。

大勝利を収めた義仲は、この戦いで愛妾の一人、葵御前を失い、
倶利伽羅峠の麓の蓮沼という草深い山中にその亡骸を葬った後、
敗走する平家軍を追撃するため京へ向かいました。

数の上では圧倒的に不利だった義仲軍が勝利した理由としてまず挙げられるのは、
戦場となった倶利伽羅の地形を良く知っていた地元の武将たちを味方につけたことです。
2千騎率いる根井隊には蟹谷次郎(かんだのじろう)、1千騎率いる巴隊には水巻四郎・小太郎の兄弟が道案内し、
最前線の源氏ヶ峰へ向かったとされています。

義仲の作戦が上手だったことも、大きな勝因です。
都育ちの平家軍と違って、木曽の険しい山中で日頃から乗馬や馬上から弓を射る
訓練に励んでいた義仲たちは、平地ではなく山中で戦う作戦を取ったことです。
そして、日中ではなく夜中に襲撃し、さらに、奇襲戦法「火牛の計」にかけては天才的といえます。

「火牛の計」モニュメントが立つ倶利伽羅古戦場

『源平盛衰記』には、義仲を勝利に導いたエピソードとして、30騎の白装束の人影が現れ、
火牛に追い立てられた平家軍を深い谷底へと誘導したとも記されています。
義仲が戦勝祈願をした、埴生護国八幡宮の八幡大菩薩の化身だったのかもしれませんね。

『源平盛衰記』や『平家物語』などに基づいたこれらの史実には、
脚色や誇張が付き物であるとよく言われますが、例えば、
火牛の計」は中国の春秋戦国時代の「田単の火牛の計」を参考にしたフィクションであるとの見方もあります。
しかしながら、津幡町河合谷の上河合地区には、倶利伽羅合戦に徴用された
牛の供養が起源とされる『牛舞坊』の舞いが今日まで伝わっています。

義仲が取った夜襲や平家軍の背後から奇襲する戦法は、
当時の戦いとしては卑怯な手法とよく非難されますが、
生きるか死ぬかの戦いで勝てば良いと考えれば、それもあり!?
義仲が見事に圧勝した戦いだったからこそ、800年あまり経った今日まで
倶利伽羅合戦が語り継がれてきた所以ではないでしょうか?
津幡町倶利伽羅地区には、倶利伽羅合戦を物語る「倶利伽羅峠の歌」が今も歌い継がれています。

次回の義仲講座は「倶利伽羅合戦後~入京まで」です。ぜひ、お楽しみに!

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ジャンル : 地域情報

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津幡の剣帯を教えてください

話題と異なるコメントで申し訳ありませんが、
津幡町で「剣帯」と呼ぶ、子ども用の刺繍の入った化粧まわしを幼時と青年時に親が作ってあげる風習が有ると聞いたのですが、現在もあるのでしょうか?
その役割や意味についても、ご教示いただけないでしょうか。
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