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座学研修会 義仲講座④「倶利伽羅合戦後~入京まで」

第4回目を迎えた「義仲講座」は、つばたふるさと探偵団の山崎信子さんを講師に、
倶利伽羅源平合戦後の石川県での義仲軍の足跡を中心に、義仲入京までを勉強しました。

1183年5月11日の倶利伽羅源平合戦で大勝利を収めた義仲に、
志雄山の戦い(源行家×平通盛)で敗戦濃厚との知らせが入り、援軍を志雄山に向かわせます。

一説によると、義仲は倶利伽羅合戦後に、同古戦場からほど近い手向神社
太刀を奉納したと伝えられていますが、残念ながら、現在この刀は残っていません。
第2次世界大戦中の金属類回収令によって軍に没収されたか、
あるいは戦後の混乱期に盗難に遭い紛失したそうです。

一方、倶利伽羅山での平家軍の大敗を聞いた平通盛は志雄山から退却し、
倶利伽羅山から敗退してきた平維盛と宮腰(金沢市金石付近)で集結し、陣容の立て直しを図ります。

かつては宮腰にあった大野湊神社(金沢市寺中町)には、倶利伽羅源平合戦を描いた
大絵馬(幅14.33メートル)が残っており、日本一の大絵馬といわれています。

義仲たちは山伝いに津幡に入り、北中条にある三輪神社の山手、
「王城(おうじょう)」で休養のため、数日間滞在します。
その山間部には、義仲が喉を潤したとされる滝水が今も残っています。

5月25日、義仲軍は津幡から金沢の波自加弥(はじかみ)神社、観法寺、堅田と兵を進め、
平岳野(金沢駅西口・平岡野神社)付近に陣を敷き、しばらくの間、宮越に布陣した平家軍と対峙します。

金沢市堅田町の譽田別(ほんだわけ)神社の由緒には、
「木曽義仲 堅田・岩出・観法寺の嶺峰に営城ありし時に祀る云々」と記され、
本社の波自加弥神社とともに、義仲が創建したと伝えられています。

波自加弥神社のブログによると、宮司の始祖は醒井小藤太という義仲の家臣でしたが、
義仲の京上洛に供奉(ぐぶ)せず、命によりこの地に土着したんだそうです。
同神社には、倶利伽羅合戦前に義仲が奉納した三条小鍛冶宗近作「中脂矢根」の矢や、
合戦後に書記の覚明に書かせた「正八幡宮」の額が大切に保管されています。

その後、南下する平家軍を追って義仲軍が京に向かって進軍した道は、
木曾街道」と呼ばれ、起点は松任成町、終点は福井県細呂木町といわれています。
この時、義仲軍を先導した地元の武士「北国武士団」の一人、加賀の富樫氏が崇拝していた
松任金剣宮(かなつるぎぐう)を義仲が参拝したと伝えられています。
近くには、義仲が寄進した神鏡が残る夛伎奈弥(たきなみ)八幡神社があります。

木曾街道をさらに進んだ義仲軍は、笠間の郷に入ります。
笠間神社では、義仲が戦勝祈願のために兜を奉納し、
手取川が増水したため、減水祈願も行ったとされています。
そのかいあって、川が減水すると、同神社の祭神・大宮比咩神の誘導によって、
兵士たちは流されないように手を取り合って川を渡ったことから、「手取川」と呼ばれるようになったそうです。
また、同神社には、兵士たちの空腹を満たすため、矢で地面を掘ると、
清水が湧き出した「木曽義仲弓堀の井戸」も残っています。

こうして義仲軍に追われた平家軍は、安宅の関へと退却し、源平両軍は梯川河口で再び戦うことになります。
京を出発した際は10万を数えた維盛軍は6万まで減り、対して義仲軍は5万でした。
もはや維盛軍に敵を押し返す力は残っておらず、倶利伽羅合戦で義仲とともに戦った
樋口兼光や今井兼平、石黒光弘、富樫泰家らの奮闘で、維盛軍は後退し、加賀の篠原まで退きました。

ここで記しておきたいのが、安宅の関の北東にある根上の松」古戦場です。
倶利伽羅合戦を前に、燧ヶ城(福井県今庄)を攻め落とし、加賀へ侵攻した維盛軍を食い止めようと、
津幡出身の井家次郎範方が、わずか17騎でもって維盛軍と戦い、11度の戦闘をしかけた後、
根上の松まで追い詰められて、壮絶な討ち死にをしたとされています。

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倶利伽羅合戦図屏風」左隻には、井家次郎範方が根上の松で討ち死にをした戦いの様子が描かれています。

続く篠原の合戦では、平家軍の武将たちが次々と捕らえられていく中、ただ一騎敵に向かって来る武者がいました。
赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、もえぎおどしの鎧を着て、鍬の付いた兜をまとったその武将は、
手塚太郎光盛に討ち取られ、その首を義仲に差し出しました。
義仲は首を受け取ると、なんと!その顔に見覚えがありました。
首を傍らの小さな池で洗わせたところ、黒髪が白髪に変わりました。
僅か2歳で父を殺された義仲の命を助けようと、木曽に逃がしてくれた恩人、斉藤別当実盛の首でした。

実盛は源義朝に仕えていましたが、平清盛に討たれた(平治の乱)後は流れに逆らえず、
平宗盛に気に入られ平家の武将になっていました。
1183年の北陸出陣には、維盛軍に従っていた実盛は、
老いの身を侮られまいと、白髪を黒く染めて戦に望んだのでした。
義仲は、皮肉な再会となった実盛の首を抱えてさめざめと涙したといわれています。

義仲は樋口兼光を遣わし、実盛の兜と鎧の大袖などを願状とともに
多太神社(小松市上本折町)に奉納したと伝えられています。
現在、社宝(国重要文化財)として保存されているこの兜は、
実盛が源義朝から拝領されたものといわれています。

1689年、松尾芭蕉が『奥の細道』でこの地を訪れ、
「むざんやな 甲の下の きりぎりす」の一句を詠んでいます。

この実盛のエピソードで有名な篠原古戦場(加賀市)には、
実盛の首を洗ったという首洗池」を始め、実盛の亡骸を葬ったと伝えられている実盛塚」や、
実盛が髪を染める時に使った鏡を投げ入れた鏡の池」など、実盛の伝説にまつわる場所が残っています。


より大きな地図で 倶利伽羅源平合戦後の石川県での義仲軍の足跡 を見る

篠原の合戦でもあっけなく勝利した義仲軍は、一気に京へ向かい、
まず越前の国府(福井県武生)に入り、都入りの作戦会議を行います。
都に入る前に、山門(延暦寺)の大衆3千人に坂本(滋賀県大津市)辺りで妨害される場合を考え、
その方策で頭を悩ませていた義仲に、書記の覚明は牒状(ちょうじょう)を送ってはいかがかと提案しました。
義仲は覚明に、源氏に味方するよう依頼する牒状を書かせ、6月10日に「木曽山門牒状」を山門に送りました。

牒状を送った義仲は国府を出発し、近江に進軍し、蒲生野(がもうの)に陣を取り、返牒(へんちょう)を待ちます。
山門の大衆は僉議(せんぎ)の結果、義仲に味方することを決め、7月2日にその旨の返牒が義仲に届きました。

この義仲と山門とのやり取りを知らなかった平家は、義仲が返牒を受け取った3日後の7月5日に、
平宗盛他9名の連署にて山門に協力するよう願書を送りますが、一足違いで同意されませんでした。

都への入口、比叡山に義仲が入ったのは7月22日でした。
義仲が入京することを恐れた平家軍は、7月25日に6歳の安徳天皇を連れ、
総勢7千余騎で清盛が生前作った福原(摂津国・神戸市)へ逃げ出します。
その前日、平家の目を盗み延暦寺に身を寄せていた後白河法皇を守りながら、
7月28日、義仲軍は戦いをすることなく京に入りました。

次回の義仲講座は、義仲最期の戦いとなる「入京~粟津ヶ原」です。ぜひ、お楽しみに!

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ジャンル : 地域情報

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